気が向いた時に残す雑記

個人の雑記です。各方面に配慮がない表現等ありましたら申し訳ございません。特定の人物、事象を攻撃する意思や意図はございません。あくまで雑記。

心の折れた日の話と、

心が折れた日の話と

 


今から長々と書くことの最終的な着地点は「好き」の思いは大きな声に出して伝えてほしいということなので今日から、今から実行してほしい。

 


趣味で二次創作をしているのだけど、ずっとかきかけの小説がある。もうお話も頭の中で完成していて途中までは世に出してある。でも非公開にした。

もっとすごい小説はたくさんあるんだけど、いいねが300くらいついてはじめてpixivに投稿したにしてはたくさん読んでもらえたな、嬉しいし頑張って続き書こう!って思える感想もたくさんいただいた。3話目を出した時、私の小説が荒らされた。というかタグ荒らし?にあった。荒らした方はコメント欄に解釈違いだ、と書いた人だった。300くらいいいねがついて、十何件かコメントもついて、続きを楽しみにしています、といってもらえていたのにも関わらず私はその小説の更新をやめてしまった。心が折れたのである。

 

 

 

 


突然だが今日の話である。本日の夕飯はしゅうまいだった。

 


発達障害の息子は味覚過敏があり、インスタグラムで素敵なバランスの良い幼児食を提供するママがみたらひっくり返りそうな食生活を送っている。しかし、彼なりに色々な経験を経て食べられるものが増えてきた。現在年長の彼が入園する前は鮭フレークご飯しか食べなかったのだから随分な進歩である。この夏彼と、彼の妹である娘は料理にハマった。私は料理を作ることが好きなのでこの夏の二人の姿は嬉しい誤算であった。自ら作ったものは1口だけでも食べてくれるので手間ではあるがほとんど毎日1食は自分でなにか調理してもらうようにした。(と書いたらすごい偉そうだけど、自分で食パンにバターを塗ったことなんかももちろんカウントしている。というかそういう日が半分くらい。笑)

今日は習い事もなく午後に余裕があった。冷蔵庫にも材料があった。息子は朝ごはんもバナナのみ、お昼ご飯を残して帰ってきたのでお腹もすいているだろうという算段があった。ということで夕飯のメインをしゅうまいにすることにした。

息子はハンバーグが大好物になったので、同じひき肉と玉ねぎの料理であるしゅうまいなら食べてくれないかなという思惑もあった。焼売の形が嫌なら皮に包まないタネをハンバーグのように焼いたものも用意すれば食べてくれるだろうと思った。昔から醤油をつけなくても食べられるように味をしっかりタネにつけたしゅうまいがすきだし、それを作ってきたけど息子が食べるとしたらハンバーグと味に大差がないように控えめの味付けにもした。

息子を調理に誘ったが、幼稚園が始まったばかりでお気に入りのおもちゃで遊ぶ時間が取れなかったためか今日は「やらない」といわれてしまう。あまりしつこく誘うのも良くないだろうと思ってわたしも分かったよー、と引いた。娘と2人でしゅうまいをつくった。

主人が定時で帰ってきた頃息子はお腹がすきすぎてぐずり出した。今日はしゅうまいだよ、といったらパニックを起こして泣き出した。しゅうまいのタネをハンバーグみたいな形にして焼くよ、と言ったけれど本人は今日これが食べたくない気分だったようで本人は不貞腐れて泣いていた。

 


これから先のことを話す前に言い訳をすると今日は朝から食に関して意見が噛み合わなかった。

日曜日に明日食べるから買って欲しいと言われて購入したあんぱんの賞味期限が昨日だったんだけど、月曜の朝も、昼も夜も食べないと言って食べず、まあ朝ならギリギリ大丈夫かな…(賞味期限だし…)とおもって食べる?と声をかけたけれど「食べたくない。気分じゃない」といって食べなかったので私がお昼に食べた。彼が食べたのはバナナだけだった。

お昼ご飯は週5でお弁当なのだが基本的に「好きなもの、食べられるものを食べられる量だけ持ってきてくれ」と言われているので本人に食べられるものと食べられる量を確認しながら用意をした。けれど幼稚園から帰ってきて流しに置かれたお弁当箱の中は空っぽの妹のお弁当箱とは対象的にミートボール一つしか減っていなかった。それで「お菓子食べたい。あんパン食べたかった。」と泣くもんだからわたしの心はざわざわしていた。怒ったって仕方がないのだから怒らないようにはしたけれどお菓子はあげなかった。あまりにも食べていないので具合が悪くなられたら困るから涙をこらえながら朝から気遣って用意したお弁当を捨てた後果物をむいた、という経緯があった。

 


朝昼食べてくれなくて、なんとしてでも夕飯は食べてほしいという気持ちはあったけどなんでこんなわがままに付き合わなきゃいけないんだ、と苦しくなる気持ちもあった。本人にとってはわがままじゃないんだけど。きっと食べられない何かがあるんだろうけど。その気持ちとこの気持ちの折衷案が今日のしゅうまいだったのだ。

 


まあここまで言い訳してなんとなく察してもらえたと思うが彼は夕飯も食べなかった。

私「ハンバーグにしたら食べられる?」

息子「うん」

私「ハンバーグにしたよ」

息子「ソースは?」

私「ソースも用意したよ」

息子「小さく切って」

私「小さく切ったよ」

 


というやりとりがあってからの

 


「こんなの食べたくない」

 


だったので、心がポキんと折れてしまってボロボロ涙が溢れてしまった。せっかく娘が一生懸命包んで誇らしそうにニコニコとご飯を食べていたのに、主人も娘を褒めながら、息子を励ましながらご飯を食べていたのに。楽しい食卓に水を指してしまった。頭の中は後悔でいっぱいだったのに涙は止まらないし息子に向かって「もう、君に何を用意していいかわからない。もうご飯作りたくない。」と泣いてしまった。それでもこの状況の感情がイマイチ理解できない息子はぐずり、主人の堪忍袋の尾も切ってしまった。主人に「パパが頑張って稼いできたお金でママが一生懸命作ってくれたご飯をなんで食べられないんだ」なんて言葉を言わせてしまった。

阿鼻叫喚の地獄絵図である。

もちろん主人もそんなこと言ったって食べられないものは食べられないんだし、私たちにはわからない感覚の過敏さで私たちには理解できない理由で食べられないことは頭で理解している。怒鳴っても泣いてもこの状況は変わらないのはわかっているし無理やり食べさせることになんの意味もないことがわかっているけれどこんな状況にしてしまったことに後悔している様子だった。

可哀想なのは子供達だった。本当に未熟な親だと痛感した。両親のただならぬ様子を感じたのか息子は「美味しくない」と言いながら食べてハンバーグ風のしゅうまいのタネをお代わりした。今日は食べられない日ではなく食べたくないだけの日だったようだ。

 


息子にご飯を食べてほしいだけなら絶対に息子が食べられるメニューにすればよかった。肉じゃがとか。冷蔵庫の中の食材でできたんだし。

好きな料理でストレスを発散したいだけなら息子のご飯に初めから鮭フレークをかけてあげればよかった。どちらも選ばずしゅうまいを作ったのは私のエゴだし、私が勝手に傷ついて泣いただけだ。

頭ではわかっているのに「偏食なくいろんなものを食べることが良いこと」という呪いからまだ解放されない心が悪いのだ。いや、偏食なくいろんなものを食べるのはいいことなんだけど。

発達障害児である彼にとってはまだ遠い段階の課題なのだ。まだまだなのだ。

 


落ち着いてから子供達に泣いたことを謝って、それから落ち着いて食べなかった食材を捨てることは悲しいことを話した。彼もお腹が満たされて落ち着いたのか「食べることがめんどくさいときがある」ことを教えてくれた。何か食べなきゃいけないのはわかっているし、幼稚園にはお弁当を持って行かなきゃいけないことはわかっているから何か持って行かなきゃいけないけど食べることが本当に本当にめんどくさいんだ、と。また折衷案を探っていく日々だ。でも今日は食べてくれてありがとう、美味しく作れるように頑張るねと息子に伝えた。息子も美味しくいろんなものを食べたい気持ちもあるとのことなので一緒に頑張ることを約束した。

 


それとせっかくしゅうまいづくりを手伝ってくれたのに食卓の雰囲気を壊してしまってごめんねと娘にも謝った。本当に娘のつくったしゅうまいはじょうずにできていたよとも伝えた。親のひいき目じゃなくても娘のしゅうまいは完璧だったと思う。娘は許してくれたけど、娘にリアルで会う人は娘にあったら娘のことを褒めてあげてほしい。本当に娘は天才なので。

 


主人が「いつもほんとによくやってくれている。俺ならもう投げ出している。」と偏食に関して労ってくれているのだがそれはひとえに自分が料理がすきなことと主人や娘が「美味しい」「作ってくれてありがとう」と伝え続けてくれるからだ。家族以外にも度々料理を作る機会があるのだが、周りに人が「おいしい!」と伝え続けてくれているから料理が嫌いにならずに、息子を責めず「特性のせいなんだ」と思うことができている。息子と娘にはとても悪いことをしたと反省しているのだけど、私の涙を見た主人が息子に対して叱ったことで現に私の「もう料理作りたくない」という気持ちは消えて息子と一緒に頑張っていこうという気持ちになれている。

だから継続して気持ちを伝え続けていくということは本当に大切なことだし、ましてやそれが自分の好きなことならなおさら大切に大切に好きだという気持ちを伝え続けていかなければならないのだと身をもって経験した。

 


1つ嫌なことがあると、それまで貯めてきた何百もの好きの気持ちよりも大きなパワーで心を抉ってくるけど、そのえぐられた穴をふさいでくれるのも好きの気持ちなんだって思った次第である。

 


最初に書いた小説の話なんだけれども、数年ぶりにひょんなことから友人に見せる機会があった。そしたら友人が本当に本当におもしろいと褒めてくれたのでなんだか数年ぶりにその続きを書いてみたいと思えた。

 


心が折れた日と、それが回復した話である。

娘の痣を消すことで私が救われたいのかもしれない話

私の娘には扁平母斑というカフェオレ色の痣がある。太ももから膝にかけてあるものが一番大きい。その他、目立つぶぶんや目立たない部分にいくつか同じような痣がある。

基本的には悪性化することはないと考えられており、娘は一ヶ月検診で「あとは消えるかもしれないし、消えないかもしれないけれど別に死ぬようなものでは無いので心配する必要はありませんよ」と言われた。

それでも心配で皮膚科にかかった。しかしこの痣はレーザー治療してもあまり意味がないと言われた。娘を見てくれた皮膚科医の腕にも同じく扁平母斑があり「僕にもありますけど、特に治療はして無いでしょ?心配いりませんよ、お母さん」と言われた。私は笑ってうなづいた。皮膚科医も安心したように笑った。


私は笑ってでもいなければその場で泣いてしまいそうだった。なにも知らない娘も笑った。生後半年の頃だったと思う。


わたしには持病があり、薬を服用しながら息子と娘を産んだ。息子の時は主治医のいるかかりつけの総合病院で出産したのだが、出産に際し持病とは全く関係ないことで生死の境をさまよったため、娘のことは県内でも有数の大きな周産期センターを持つ産婦人科で産んだ。結果としてそれはものすごく良い選択肢であった。まあ、実質そこで産むしか選択肢はなかったのだけど。

娘は予定日よりも少し前に生まれたのだが、4000g近いとても立派な体重で生まれた。こんなに大きいのだから丈夫に育つね、なんて助産師さんも笑っていた。わたしもホッとしていた。

ところが数時間後、わたしの元に娘が入院したと看護師さんが伝えに来た。産後のわたしを気遣って念のためね、念のため。と繰り返した。わたしを不安にさせないように作られた笑顔が余計にわたしを不安にさせた。まだ名前もない、わたしの名前の後ろに「ジョジ」と書かれたたくさんの書類に保護者としてサインを書いたのが産後初仕事になった。授乳でもオムツ変えでもなく、娘の治療のためのサインだった。

わたしは看護師さんがそうしてくれたようにすでに帰ってしまった家族に連絡した。極めて明るく。「大丈夫大丈夫。病院の先生かがついてるんだよ?退院してからおかしくなったりしなくてよかったじゃん!」と。高速を使って1時間かかる距離だったことや、兄になったばかりの息子が風邪をひいてしまったこともありわたしは一人で娘の元へ通った。NICUにいる小さな赤ちゃんの脇でひとまわり、ふたまわり…さんまわりくらい大きな娘を見てなんでここにいるんだろうな、なんて思ったりもした。きっとまわりの人もなんでこんなに大きな子がいるんだろうななんて思ったかもしれない。「わ、デカ」って漏らしたちいさな赤ちゃんのお父さんの表情を今思い出そうとしても鮮明に思い出せる。

娘の容態が思わしくなかったことは最後まで原因がわからなかった。母体に合併症がなかったのかわたしも調べられたりしたのだけど、息子出産の時に悪化させてしまった貧血以外は特になにも見つからなかった。

こんな状況のなか、気づいたら娘の足に痣を見つけたのだ。なんて書いて良いかわからないのだけど、わたしの心中を察してほしい。


それから娘は見た目はめちゃくちゃ健康優良児に見える病弱な乳児、幼児人生を歩むことになる。

生後2ヶ月にRSウイルスに感染したことをきっかけにわたしと同じ持病を発症した。発熱すれば必ず入院した。予防薬を毎日服用することになった。そしたら今度はまた別の体の不調が見つかった。人より疲れやすく人より休息を取らなきゃいけない体質なのに娘はちっとも寝てくれなくて思うように昼寝ができない日が3日くらい続くだけですぐに熱を出した。


そんな日々を送り始めたところに痣を積極的に治療するのはあまり意味のないことだと言われたのだ。心中をお察し頂きたい。



わたしに持病があることと娘の体のことはほとんどイコールで結ばれない。同じ持病を持ってしまったことはこれはもうほんとうに私の遺伝子がごめんね、なのだがそれ以外はわたしに持病があろうとなかろうと薬を飲んでいようがいまいが、重症妊娠悪阻になったことも貧血なことも関係が無いことだと娘を見てくれたお医者さん方は口を揃えて言った。ましてや娘の体にある痣はわたしのせいでもなんでもない。


だけど、それでも。

わたしのせいじゃないかな、とやはり心の中で自分が自分を責めるのだ。

ああすればよかったのかもしれない、こうすればよかったのかもしれないと頭の中で自分をいくら責めても目の前にいる娘の体が良くなるわけでもなければ痣が綺麗になくなるわけでもない。なんの意味もないことなのにそうやって頭の中にずっとそれは消えないであった。


娘の痣を見て「あら、どこかにぶつけたの?」などと道行く人に聞かれることは日常茶飯事である。娘が自分で動けないような時には虐待されてるのかな、などと陰口を叩かれることもあった。「ここ痛いの?」と聞かれた日は傷もない、ぶつけてもいない、なんでもない足にある痣を指差して覚えたばかりの日本語で「いたい、いたい」と一晩中娘が泣いた時もあった。

ここでわたしが言いたいのは娘に声をかけて来た人が悪意を持って言ってきたのではないとわかっているということだ。知らなければそういう反応をするだろうということもわかっている。言葉はきついものだったけれど虐待かもしれないと言われることはめちゃくちゃ傷つくけれど、子どもの命の危険に気を配っているというか、関心がある人がいるんだろうと思う。いや、そう思い込んで自分を奮い立たせた。怪我をしている子どもを見た時に見て見ぬ振りをしない人なんだろうな、と。そう思うしかなかった。

だからわたしは勝手に傷ついて来た。


オシャレが大好きな娘に「私の足のこれはいつなくなるの?」と聞かれたこともある。

私は意味がわかるかわからないかそんなことは置いて、娘に「あなたの痣は生まれた時からあるんだよ。治ると良いなと思ってはいるけどこれはなくならないよ」と聞かれるたびに説明した。これが正しいことなのかはわからない。でも、嘘をつくことが良いとは思えなかった。入退院を繰り返し大人の中で育ったすこし大人びた娘にごまかしてとりつくろうこともできる自信がなかった。治らないかもしれないと口に出しながらわたし自身もその事実を飲み下そうとしていた。

なにが理由でも人のことをからかうことが「あり」とされるような残酷な年齢になった時に娘の心をどう守れば良いかすごく考えたし、思春期の娘にこんな体に産んだのはどうしてといわれる想像もした。


ごめんね、ということした頭に浮かばなかった。



今日、娘の皮膚科の定期検診を受けに行った時にそこの病院でやっている美容診療の料金表が目に入った。 きっと前から貼っていたのになぜか目に入らなかったものが今日、目に入った。

思い切っていつもの診察をした後にそれについて質問してみた。すると先生は丁寧に説明をしてくれた。やると決まったらきちんと診察させてもらうと言ってくれた。メリットだけでなく、デメリットのことも説明してくれた。私は笑っていた。泣きたいのをこらえていた。でも今度は嬉しい意味でだ。

やるとしてもやらないとしても、選ぶ選択肢ができたことは幸せなことだ。

「できない」と「やらない」には大きな差がある。

娘は帰りの車の中で「この茶色がなくなるかもしれないってお話をしてたわけ?」と聞いて来た。私は「消えるかもしれないし、きえないかもしれない。絶対消えるって約束はできないけど消えるかもしれない方法はあるってお話だったよ」と説明した。「なくなったらうれしいな」と娘は言っていた。3歳児の言葉なのでまるっと信用するつもりはないのだけど、家族で話し合ってとりあえずはその治療についてもう一度前向きな方向で話をきいてみたいと思った。


治療をしたことによって、もしかしたら娘が「痛い思いまでしてやりたくなかった」などと思ってしまう可能性だってないわけじゃないのだけど、娘の痣についてなにかやってあげられた事実が残ったらなんの選択肢がない状態でいう「ごめんね」よりも前向きな「ごめんね、でもこの時それが一番いいと思ってママはそれを選んだんだ」っていえる気がする。私のエゴなのかもしれない。痣があってもへっちゃらだ!と思える子に育ててあげるほうがいいのかもしれない。でも。


でも。


最後に書いておくと別に私は娘の痣がある足だって大好きだ。ムチムチの足の写真だけで自分の子を当てる選手権があればもう私は秒で優勝が決まってしまう。そんなのなくたってわたしのかわいいかわいい娘の体なのだ。大好きに決まってる。

娘が自分自身を大好きでいられるような選択をしたいのだ。親が守ってあげられるうちに。


何かしてあげたくても、なにもしてあげることができなかった現状に一筋の光が刺して来たような気持ちになったことを雑ではあるけれど残しておこうと思う。

ゆるママ卓1周年によせて

これちょっと、お酒飲みながら書いているので、後から読み返した時にちょっと恥ずかしくなるようなことも書いちゃうかもしれないけれどこれが本音なので余すことなくこの気持ちを書き残しておきたいと思う。

そもそも私がTRPGをやりたいと思ったのは、あまりにも日本語を使う機会が乏しすぎたからだ。4歳になるところの息子と2歳の娘。旦那は仕事が忙しく当時はほぼワンオペ。子供たちに話しかけるのはもちろん日本語なのだけど「わかりやすく、端的に」を意識して話しかける言葉は実に単調だ。出ないと理解してくれないし。旦那との会話も子供のことが中心。それはそれで楽しいのだけど、私はもっと大人のコミュニケーションがしたかったのだ。

かと言ってコミュ障を極めている私はいきなり「じゃあ、何か話しましょう」と声をかけて話題を広げるスキルを持ち合わせてはいなかった。そこで昔遊んだTRPGをやりたいなと思ったのだ。

しかしここで壁にぶち当たった。時間が合わないのだ。オンラインで募集しているにセッションに参加したくても長時間セッションだけをしていることは不可能だし、夜のセッションだとしても娘の夜泣きもあるうえに夜更かししすぎると次の日に辛いのは目に見えている。ああ、詰んだな、と。

そんな気持ちを抱えながら「trpgやりたいな」ツイッターで呟いたら乗ってくれたママ垢友達がいたのだ。一人はクトゥルフ経験あり。もう一人は私のつぶやきでTRPGを知った子だった。そんな3人でクトゥルフを遊んだのが2018年1月26日だった。

3人で遊んだのがめちゃくちゃ楽しくて、めちゃくちゃ楽しかったよと言いまくったら少しずつ仲間が増えていき2月には定期的にセッションをする環境ができた。タイマンとかまで含めるとグループ内で50以上セッションをしていた。キャラクターもたくさんできた。面白い設定も切ない設定もできた。異性カップルも同性カップルもできたりした。めちゃくちゃ面白いキャラもできた。人外作りたい!って話からできたのがホットケーキとか豆腐とか。そんなことある?人外のために新しい架空のキャラクター作ってくれる人までいてほんとこれはどうすればいい?ってめちゃくちゃ楽しく悩んだりしたことも鮮明に覚えている。そんなのクトゥルフじゃない?じゃあクトゥルフのシステムを借りた何かで構わないかな。面白ければなんでもいいかなと思っているところはある。

私がこの定期的に遊んでくれるメンバーに思うことはひとつ。感謝である。セッションは大体夜21時から大体その日のうちに、遅くても1時までには終わらせているのだが(長いものだと日を分けたり。)この時間って主婦にとったら1日の中でもほっと息をつける大切な時間だと思うのだ。(いや、主婦だけじゃ無いか。みんな大切な時間だけど、ほら。寝かしつけとか家事を終わらせてホッとしている時間という意味で。)その時間を使って一緒に遊んでくれる。遊ぶためにキャラを作ってくれる。シナリオを書いてくれる。シナリオを用意してくれる。もうこれって感謝でしか無い。TRPGってルルブと紙と鉛筆があれば遊べるけど、遊ぶためには一人では遊べない。遊んでくれる誰かがいないとなにもはじまらないのだ。

だから少しでも楽しいなって思ってもらえる時間にしたくて設けているハウスルールもある。TRPGを日常的に遊んでいる人から見たらちょっとどうかなと思うルールもある。開始時間に間に合わないので後から入ってくるとか。夜泣きが始まったので抜けるのもアリとか。ロスト探索者を復活させるシナリオをやったりとか。

みんなが1日の中の時間を削り出して作ってくれた「遊びに対する時間」を大切にしたいと思ってわたしが勝手にやっていることなんだけどそれでも「楽しかったね」と言い合える時間がわたしはなによりすきなのだ。

TRPGを始めてからというもの、ばくぜんと満たされていなかった大人のコミュニケーション欲というものはだいぶ満たされた。1日のうちに子供のこと以外を考える些細な時間を楽しみに日々の生活を頑張れるようになったし、TRPGを好きになったことで自分の好きも広がった。好きが拡がったら今度は行動力も湧き出て、行動範囲も拡がった。

2018年は間違いなく私にとって転機の一年だったように思う。

それも全てこのグループのおかげだなと思う。

なんだか照れ臭いけど、でもほんとうにありがとう。だいすき。

2019年もセッションをたくさんしたいなって思うし、一緒にtrpgができる仲間も増えたら嬉しいなと思っている。

楽しかったセッションをまとめて共有する機会も作りたいなとも思っている。やりたいことは尽きない。満たされたコミュニケーション欲は今なにかを作り出したい気持ちへと変化している。自由に使える時間は限られているけれど、限られている時間の中で楽しいことをたくさんしていきたいし、たくさん見つけたい。

母親だからと楽しいことを諦めるより、母親だからこそ楽しい、をたくさん共有していきたい。そんなふうに思っている。

さいごに、メンバーはいつも募集してるよ!!!!!!笑

こんにちわ、トイレ

はじめに。
この記事は息子(3歳11ヶ月)のトイレトレーニング記録です。8割方完了したかなーっておもう。(8割の理由は後述)
この記事を通して言いたいことは

「トイトレとかまじ人それぞれだから!早くてもいいし遅くても焦る必要ねーから!」
という一点のみ。

この記事はマウンティングしたい訳ではなく
ただ息子を自慢したい…頑張ったね…えらいね…と褒めて欲しいだけなのです。単なる親バカ記事なの。むしろ一生懸命トイレトレーニングした親御さんは誇っていいと思うよ。
ただ、もしトイレトレーニングで悩んでる親御さんの目に留まったら「あー、焦る必要ないのかー!」って思ってもらえてらいいなと思って書くことにした次第です。

まずはじめに私はほとんど何もしてない…。
すべては幼稚園のお友達と先生のおかげ…。



※我が家のトイトレ※
水曜日:幼稚園に迎えに行ったら登園したときのズボンとは違った。汚したのか~と思って帰宅。

息子「僕いま、幼稚園のパンツ履いてる(ズボンを下ろしてドヤ顔)」
なんと、おにいさんパンツを履いていた……。(普通のパンツ)

汚れた着替えを見るとそこにも濡れたズボンとパンツ…!

母「トイレいく?」
息子「怖くて嫌だ」

クローゼットの奥底にあったおまるをだす
母「ここならおk?(リビングに即席トイレスペースを作成)」
息子「それは丸!」

成功

母「おしっこいってみたらー?」
息子「わかった」

成功

その後、何度も勝手に用を足す

念の為おにいさんパンツのうえからおむつをはかせ就寝

木曜日:息子「おしっこでるわ!」
起床時オムツの濡れなし

息子「パンツで登園するわ!」

登園
先生「ママ~すみませーん!オムツなくなっちゃって何となくおにいさんパンツ履いてみる?ってきいたらうん!と言ったので履かせてたの報告するの忘れてました~!」
私「家に帰ってもパンツで過ごせました、パンツがいいって言うのでパンツです」
先生「まじか、もうオムツ外しちゃいますか?」
私「せやな」

お迎えに行くと送り出した時と同じ服装

帰宅後も自主的にトイレ

あれ、これトイトレ完了じゃね?(8割)

遊びに夢中になるとまにあわなくてちょっと漏らしてしまう時もあるが自分の意思でおまるにいって用をたせるのでもうこれ、ほぼ完了といっていいのでは……?8割の理由はおまるだから。
となった次第。トイレトレーニング、1日。



実は前にトイレトレーニングに励んだ事もある。
私、保育士だったから一応オムツ外しのノウハウはある程度身についてて自分の子どももまあ同じ段階を踏めばいいかなーと。
布おむつにすると濡れている感覚が分かるということで布おむつにした時もあるし、便座にはじめて座らせておしっこができたのは生後7ヶ月。

それでもオムツが外れたのは3歳11ヶ月ですから~~~~。

本格的にトイレトレーニングに励んだのは2歳半の夏でした。やったことがある人も多いと思う漏らした感覚を経験させておむつはずれを促す的なあれ。
息子の気に入ったパンツを選び息子の選んだ補助便座を買って開始。
時間で誘えばトイレで用がたせるけど、


濡れても不快感を訴えることは無かったです。


10日ほど続けても変化なし。そしてその後私がトイレトレーニングを辞めるきっかけとなったのは胃腸炎。息子はパンツに下痢を漏らしてしまったのです。
私はその時病気だし、叱ったり怒ったりは決してしなかった、といえる。努めて笑顔を心がけていた……とおもう。けどもしかしたら態度であーあ…って思ったのが伝わってしまったのかもしれない。そして下痢を漏らした経験が相当ショックだったのだろう。パンツを見るだけでパニックをおこして泣くようになってしまった……。

オムツを外したかったのは親の都合。オムツ代が…とか幼稚園の前に……とか。
ならばと思い、主人と相談してトイレトレーニングの一切をやめました。
たまにそれとなく「トイレいってみる?」とか「パンツ履いてみる?」とか声をかけたりはしたけれどどんなにニコニコして機嫌が良さそうでも聞かれた途端顔を強ばらせて「嫌だ」と彼は言った。まあムリだよねーそうだよね!ってこっちは引いた。そんなことを何度も繰り返して彼は入園。

入園後、担任の先生にも以上の事を相談したところ「じゃあ本人のやる気になるまで待ちましょう~」と言ってくださったのだ。
先生も無理にオムツを外そうとしたりトイレに誘ったりはしなかった。そのうち、大好きなお友達ができてお友達とトイレに行きたくなって、トイレのあとの手洗い(という名の水遊び)にハマって幼稚園のトイレが大好きになった。それでもパンツは履いてくれなかった。先生も無理強いはしなかった。
家でも折に触れてトイレやパンツを促して見た。相変わらず「嫌だ~」とは言っていたが顔をこわばらせることはなくなった。ニコニコしながらの「いやだ~」だった。たまにトイレに行ってくれる時もあった。

そんな攻防を繰り返しての現在だ。

ほんと私何もしてない。いやまじで。
なにかしたのかと言えば「妖怪 まだオムツなの?ババア」と戦い続けたことくらいだ。これは自分の親にも言われたし、オムツ替えのためにはいる外出先のトイレでも言われた。
外出先では「背は大きいけどまだ2歳なんです~」とも言ったし「今トレーニング中何ですけど出かける時はねー」とか言って誤魔化したあと息子に「嘘ついてごめんね、でもトイレはゆっくりでいい」と言った。
自分の親には「息子のペースだから」と言った。一時期しつこかった時は
必殺「保健師(小児科医、幼稚園の先生)にも相談したんだけど、無理に勧めるより今は見守る方が息子にあってるって言われたから!」でつっぱねた。
(この必殺、けっこう使える。)

親が面倒くさがっていつまでもオムツなんだね
とかなんとかも山ほど言われましたがバーーーーーーーカ!!!!と心の中で叫んで気にしないことにした。

同年代の早い子がオムツとれ、同年代のこがオムツとれ、気づけば年下の子もオムツが取れていた。
焦る気持ちもなかったわけじゃない。
でもいつだかTwitterかなんかでみた

「早くオムツが取れることよりも1日でも1年でも長くパンツの生活ができる方が大切。幼児期の1年も2年も大した差ではない」

という言葉が私を支えてくれた。
幼稚園の先生も

「小学生までオムツの子はいないから!焦らず行きましょ!」

といってくれたのもあり息子のぷりっぷりの小尻を4年も堪能してしまった……♡

思えば、2歳半の夏。
オムツを外さなければ……と思っていた夏は娘が1歳になる直前で歩き始めてとにかく後追いがひどかった。精神的にも1番きつかった時期だ。それからずっと入退院を繰返して息子は預けられることが多かった。
やっと最近娘のイヤイヤ期も落ち着いてきて(いや、落ち着いてはない。こちらが慣れた。)私も自分時間を楽しんで心にも余裕ができてきた。

もしかしたら……私の心の余裕ができるまで待っててくれたのでは……?

息子、そういうところがあって1歳前のとき歩けそうだったんだけどちょうどその時妊娠してつわりで遊んであげられなかった。そしたら急にたつのをやめてしまったのね。産むまでずっとつわりがあったけど安定期になったときにすくっと立ち上がってしっかりと歩き始めた時も「この子は私の具合が良くなるまで待っててくれたんだ」って思った。

めっちゃえらくないかな?天才じゃないかな?(親バカ)


とにかく我が子は慎重派なのだ。
失敗を人前に出すのがすごく嫌みたい。
いっぱいいっぱい試行錯誤をする姿、見せて欲しいのにな。わが子がそういう部分を出せる環境を作るのが今の目標。

とにかく、なかなかオムツが外れないなって子は自分のタイミングをはかっている慎重派なのかもしれない。だから焦らず。大丈夫。

うちの子、火曜日までオムツにおしっこが出たことすら言わなかったから!!!!!!!!
焦っても外れないから!

変な妖怪や、マウンティングしてくるやつに心が挫けそうな時は
私がTwitterかなんかでみたあの言葉を思い出してくだされ。4歳までオムツだろうがなんだろうが……死ななきゃ安い(cv.新垣樽助)
元気ならそれでいいんだよね。

息子よ、頑張ったね。だいすき。

将来の夢的ななにか

書きたいことがあるときが書き時と言いますが毎日書いちゃうと自分、毎日書きたくなっちゃって苦しくなるんだよなーとおもいつつ書きたいことが3つくらい溜まってるので文字にしようと思う。でも聞いて。なんでも刀剣乱舞絡めたくなる。

恥ずかしながら、小学校の卒業文集に書いた将来の夢は小説家だった。あまり体の丈夫でない幼少期(現在もポンコツだけど。)私は本の虫だった。うちの両親は欲しいおもちゃは基本的に買ってはくれなかったけど本なら欲しいと思った時に湯水のように買い与えてくれる人達だった。
結果としては小学生のうちに恋愛小説を読み漁って色っぽい大人の恋愛に憧れ(つまるところセックス)現在の性欲おばけが出来上がった。良いんだか悪いんだか。まだきちんとした恋愛を知らないような(結婚した今でもきちんとした恋愛を知れたかどうかは謎だ)青臭い頭でっかちの小学生は恥ずかしげもなく「小説家」になるという夢を公言してしまっているのだ。恥ずかしすぎて同級生の卒業アルバムを燃やして回りたい。
そんな私もいくつか賞に応募し、現実を突きつけられ、挫折した。結果として書くことは趣味にとどまっている。これで良かったのだろう。

では実際、私は大人になってどんな職業についたかというと「保育士」だ。これまた親の刷り込みみたいなものだがうちの両親は二人とも教師になりたかったらしい。もちろん強制はされてないが父は「娘達の誰かが先生とよばれる職業についてくれたら嬉しいな」と言っていた。(そういえば小説家も先生じゃんねー)父の夢を叶えたいという気持ちは微塵もなかったが私は幼稚園から高校、はたまた短大まで先生ガチャの引きだけはアホみたいによかった。だから「先生」と呼ばれる職業……いいんじゃない?と思ったのだ。高3の12月末にwww受験まで1ヶ月を切った時にwww
もともと高校を卒業したらどこでもいいから就職しようとおもっていて就職活動をしたのだ。クソ進学校だったのに。(一般就活をしていた生徒は240人中2人)一応、とある工場に内定をもらっていたのだがなんとリーマンショックの影響をうけ内定先の工場が倒産したのだ。12月に。
そこで急遽進路を考えた時に勉強しなくてよくて得意科目で入れる進学先を探した時に保育士の養成学校にいくことにしたのだ。付け加えるとめちゃくちゃ子どもが好きなわけではなかったのだが高2の時に大病をして「もしかしたら子どもは産めなくなるかもしれない」と医者に突きつけられたのだ。だからぼんやりと自分の子どもを育てられないかもしれないなら他人の子どもでも人間が成長する姿をそばで見てみたいなという気持ちもあった。

そして保育士になった訳だが私は1年で退職することになる。現在保育士の待遇など様々な問題が浮き彫りになっているが私の場合体調面で退職だ。
これ、保育士になった人はみんな経験していると思うのだけど保育園は感染症の巣窟だ。どんなにこちらが対策してもクラスの半分は毎日鼻水を垂らしているし誰かは咳をしている。働いてたあいだお昼に投薬を行わなかった日は数える程度だったんじゃないだろうかというレベルでみんな体調不良だ。
信じられないレベルで風邪を移されるのだ…。「1年目はみんな移るんだよ~そうしてみんな丈夫になるんだよ」と先輩先生が良くいっていたことを思い出す。言い過ぎかもしれないが過酷な労働条件で感染症までうつりまくっててあの給料とか正気なの…と今では思う。
私は1年間で3度マイコプラズマ肺炎を移されそして持病の喘息をこじらせて入院した。3度目の入院のときはほぼ1ヶ月も間入院した。主治医からは「このまま続けてたら死ぬ」と言われて退職した。
悔しかったけれど、やめたことに関しては間違ってなかったと今でも思っている。それに資格があれば「保育園の保育士」以外でも働く場があることが分かったのでいずれはなんかそっちの方面で働くと思う。仕事はめちゃくちゃ好きだったからね。

しかし、こんな事言ったら毒親に思われるかもしれないけれど自分の息子や娘が保育士になりたいといったら多分全力で止める。社会が今のまま変わらなかったとしたら。絶対保育士にはなって欲しくない。多分我慢しようとしても「やめた方が良い」と口に出してしまうだろう。
短大時代、同級生は130人いた。留年したり辞めたりして卒業する時は120人くらいだったのかな。120人全員が保育士として、正社員で働き始めた。現役で働いているとしたら7年目になるのだがもう多分、半分も正社員としては働いてないと思う。下手すれば3分の1くらいだろう。上の世代からみたら根性ないとかみっともないとか思われるかもしれない。そう思ってもらっても構わないけれど私の同級生たちは結婚や妊娠出産などおめでたいことでやめた人もたくさんいるけれど、それ以上に心や体を病んで辞めていった。
私のように持病が悪化した人、ストレスでリウマチを発症した友人、過酷な労働環境で心を病んだ子……。
その殆どが「仕事は好きだし、子どももかわいい。大好き。だから途中で放り出せない。せめて学年末まで…」と、無理に無理を重ねて自分をすり減らしていった。いまの保育業界はそういう若い子たちの良心を食い物にして成り立っている気がしてならない。
過酷、過酷と書いてるけど私が働いてた職場、人間関係だってそんなに悪くなかった。しかしその職場に残っているのはシフト制のはずなのに仕事が山積みで12時間勤務していることも、持ち帰りの仕事が多すぎて家でも仕事をしていることも、残業代は基本的にでないことも、給料が低いことも(下手したら最低時給以下で働いている)「保育業界はどこもそうだからしかたないよね」って諦めてしまった人達でなりたっているから変わらないのだと思う。

そんな業界に可愛い子どもたちを「がんばれ!応援してる!」と送り出すかーちゃんにはなれないよ…。
親に認めてもらえないとめちゃくちゃ悲しいことはよく分かっている。私だって保育士よりは現実味のない突拍子もない「小説家になりたい」という夢を笑われ、無理だ、やめときなって言われた時は悲しくて悲しくてたまらなかった。
でも結局親に言われて諦めてしまうような夢なら夢で終わっといた方がいいんじゃないかと今は考えている。
でも出来ればこれ、子どもに言いたくない。
言いたくないから今のうちにいろんな選択肢があるよ、と広い世界を沢山見せてあげたいと思っている。


といっても現実は酷なもので、今わたしは悩んでいる。
もうすぐ4歳になる息子、実は将来の夢があるのだ。彼は慎重な性格で思っていることを頭で逡巡しすぎてなかなか口から出てこない。そんな彼が3歳になって少しした時初めて将来の夢を口にしたのだ。

「新幹線の運転手になりたい」

とても可愛らしくて思わず私は彼を抱きしめた。発達が他の子よりもゆっくりな彼が頭の中で自分が大人になる姿をイメージし働く姿を夢に見れたことが嬉しくてたまらなかった。
しかし彼は色弱かもしれないのだ。かもしれない、というのはまだこの年齢だとはっきり診断ができないためだ。彼の見えているものは彼にしかわからない。彼の場合発達もグレーだし、ほんとうに色弱かどうかはまだはっきりとは診断できないのだそう。

もし本当に彼が色弱であったのならば新幹線の運転手になることはできない。

それは本人が自分で知る方がいいのか、期待させずに親が言ってあげた方がいいのか、未だにわからない。迷っている。どちらにもメリットがあり、デメリットがある。最終的に決めるのは夫と私だ。幼児の夢なんかコロコロ変わるだろうし、もしかしたら私と同じように色鮮やかに世界が見えているかもしれない。そうであれと毎日祈っている。
でももし、その日が来た時にどうしてその選択をしたか理由も込みで息子に伝えられたらいいと思っているのできっと私たちはずっと考え続けるのであろう。

お雑煮と夫婦について

昨日というか本日というか、わたしの大好きな刀剣乱舞というコンテンツのメディアミックス作品である「続 刀剣乱舞 花丸」の放送が開始した。
開始日を指折り数えて待ち、推しキャラが映るかドキドキしながら普段はしない夜更かしをしてまでリアルタイム視聴をした。
(推しを公言しているキャラクターは相変わらず可愛かったし、そのキャラクター同じくらい大好きなキャラクターがほぼメイン級の扱いで無事爆発。生きる。)

その中でとあるキャラクター二人がお雑煮について口論するシーンがあった。
片方は雑煮といえば「丸餅に白味噌」、もう一方は「角餅にハゼのだし」と。
角餅にハゼは仙台、丸餅に白味噌は関西に多いという知識だけはあるがどちらも私には馴染みがない。

では私にとって雑煮とは…と考えた時にとても頭が痛くなった。
私にとって雑煮とは新年早々繰り広げられる夫婦喧嘩の象徴なのだ。
これから書くことは、とらえかたによっては両親を非難しているように捉えられかねないが、私は両親を責めたい訳では無いと先に書いておく。

我が家は北関東の農家だ。父はそこで生まれ育った。父の中で雑煮と言えば、その時ある野菜と鳥肉をふんだんにいれ、醤油で味をつけたものだ。
父が幼い頃は家で家畜を育てていたと聞く。正月とはいえ農家に休みはない。ひと椀で野菜、タンパク質、炭水化物がとれる暖かい汁物と言うのが雑煮なのだ。文字どうり雑に煮る感じ。そしてその雑煮に欠かせないのが芋がら(里芋の茎?を干したもの)である。父はもう絶対に何がなんでも野菜と鶏肉と芋がらが入っていないと雑煮とは認めない!!という農家雑煮過激派である。

一方母はサラリーマン家庭で育ったが、その母、私からすると祖母)は東京の大きな商家で育ったと聞く。そんな祖母が作るお雑煮は透明なすまし汁に焼いた餅を入れ、別ゆでした飾り切りの人参、三つ葉、手鞠麸、香り付けにゆずの皮を少しだけ散らすといった今で言うめちゃくちゃインスタ映えなお雑煮だったのである。

そんな両親が結婚し父の元へ嫁いで初めてのお正月、敷地内別居をしていた母に新年のお料理よろしくねと頼まれた母は気合いを入れてお雑煮を作った。もちろんインスタ映えなお雑煮である。
(ちなみに、普段の食事はもちろん家が違うので別々だが父方の祖母は所謂メシマズ嫁であったため、比較的料理が得意だった母に正月料理が一任されたのであった。)

「これはなんだ…?」

父が母に言った一言がそれである。
そしてそれは雑煮解釈違い戦争の火蓋が切って落とされた合図でもあった。


父曰く、母の料理は基本的に美味しいのだ。でもそれを「お雑煮だよ」といって出されるのは自分の中では納得出来ない。

母曰く、お雑煮の汁が濁っていることは許せないのだそう。なんていうか、それって餅入り野菜汁じゃん。普段はいいけどお正月には違うじゃんと。


まーーーーーーーー飽きもせず毎年毎年正月になると二人は言い争いをしていた。私が物心ついてから母が家を出て別居を開始するまでの20数年間、毎年だ。

母も父好みの雑煮を作らなかった訳では無い。お正月休みのお昼ご飯なんかは野菜のたくさん入った農家雑煮だった。
でも、元日の朝はインスタ映え雑煮を作り続けた。25年。ずっと。

父も父で元日の朝くらい我慢すればいいとずっとずっと思っていた。どうせ食べるんだから「美味しかった、ご馳走様」で終わらせればいいのではないかと。母だって農家雑煮を作ってくれない訳では無いんだから。なんなら自分で作ればいいじゃないかと。
ただ母はずっと「これが正しいお雑煮だからあんたたちも覚えてないと恥ずかしいよ」と毎年毎年言っていた。雑煮は濁ってはいけない、醤油なんてもってのほか。きちんと出汁をとって塩で味付けした汁こそがお雑煮の汁なのだと。
そういうスタンスで毎年インスタ映え雑煮を作っていたから父も思うところがあったのだろうな、といま考えれば思う。

勿論、母だってそれが正しいと教わってきたのだ。子供のころからずーーーっと。郷に入りては郷に従えともいうが母にとってそれは曲げられないものだったのだろうと思う。


でも雑煮に正しいもクソもないじゃん…
というのが20年以上雑煮解釈違い戦争に巻き込まれた子どもの感想である。
それこそ母の基準でいえば白味噌の汁など「ありえない」という結論に至るのであろう。過激派怖い。

これに限ったことではないが、結果としては25年連れ添った後、現在別居してもうすぐ3年が経つ両親を見てこの人達は夫婦としての対話が上手くいってなかったんだろうな、と生意気にも結婚してもうすぐ5年を迎える私が行ってみる。夫婦といえど元は赤の他人同士だ。
父だって母だって、雑煮に関してだって他人に対してだったらあんな話し方も対応もしなかっただろう。

「ありえない」「あんなの雑煮じゃない」なんて恨みがましく子どもだった私たちに言わないでさ、もっと違う言葉で父に言えばよかったのに。

父だって母の話をたくさん聞いてあげればよかったのに。いつも「どうせ俺が言ってもあいつの好きにするだろ」なんて言わないでさ。

こんなところにこんなこと書いてるわたしも、本当はこの気持ちをちゃんと両親にいえば良かったなあと思っている。でも私達ももう大人だし、子は鎹なんて言葉もあるけれど鎹になるには育ちすぎてしまった。私は自分の家庭があるし、妹達にはそれぞれの生活がある。

何が出来るか考えた時に、私は思った。

「子どもたちには同じ思いをさせたくない」


そう気をつけて生活してはいるものの、勿論私にも過激派の血は流れている。「え、それはなくない……?」と思うことは多々ある。例えば焼きそばにものすごくマヨネーズをかけることとか。そしてそこにご飯を入れることとか。マジでない。(と思っていた 笑)
そして口に出したことも何度かある。だけどそれを口に出してしまった時、夫はものすごく悲しそうな顔をするから私はやってしまった…と思うのだ。そのたびに反省する。
幸い夫が理解があるというか懐が深いというか、食べ物に関して全幅の信頼を寄せてくれているためか「美味しければなんでもいいよ」と言ってくれているため食べ物においての大きな解釈違い戦争は勃発してはいない。夫と私の食べ物の好みが似ていること、育った地域がおなじことも要因のひとつだと思う。しかし、一番大きな要因は夫がなんでも話を聞いてくれること(勿論、食べ物のことに限らず)だと思う。ほんとうに感謝している。大好き。

新年早々、お雑煮の話から飛躍した自覚はある。久々に長い文を書いたからあまりまとまりがない文になってしまった。
とりあえず言いたいことは結局

「今年も夫婦仲良く過ごします」

ということに尽きる。自分には過激派の血が流れていることを肝に銘じ、夫に感謝して過ごします。夫が私にいつもしてくれていることを返せる人間に今年はなろう。


最後になりますがそんなこんながあって、私の中には確固たるお雑煮像が存在しない。そんな私がどんなお雑煮を作ったかというと昆布、かつおぶし、鶏肉で出汁をとったものを醤油で味付けし、電子レンジでチンした柔らかいお餅を器に入れ別ゆでしたほうれん草、ニンジン、かまぼこ、手鞠麸をいれたなかにお出汁を注ぎ入れた。

私のお雑煮を、両親はなんというかなと考えながら「美味しいね」と言ってくれた夫と子どもたちの顔を思い出している今日この頃。